■「花の大階段」跡、2014年10月には消滅
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小田急小田原線の向ケ丘遊園駅から15分ほど歩くと、右手に大きな階段が見えてきた。遊園地のシンボルだった「花の大階段」だ。かつての花時計はうっそうと生い茂る木々に変わったものの、在りし日の面影を今に伝えていた。
大階段の手前のフェンスに、看板があった。「事業計画のお知らせ」。読むと「向ケ丘遊園跡地利用計画」と書いてある。ここに何かができるらしい。小田急に聞いてみた。
「住宅を核とした再開発を計画しています」
向ケ丘遊園の大階段(小田急電鉄提供)
同社によると、遊園地跡地の敷地21万8千平方メートルのうち、15万2千平方メートルで開発を進めている。多摩丘陵の起伏に富む地形を生かしながら、約60戸の戸建て住宅と約160戸からなる低層マンションを整備。庭園や林など緑地を維持しつつ、飲食店などの店舗も配置する構想だ。では大階段は?
「撤去して斜面にする予定です。造成が始まる2014年10月ごろにはなくなるでしょう」
なんと、向ケ丘遊園のシンボルでもあった大階段が、撤去されるという。確かに既に役目を終えてはいるが、思い出の場所がなくなるのは少し寂しい気もする。
■向ケ丘遊園、開園当初は無料 園内に俳優学校も
向ケ丘遊園の歴史は古い。開園は1927年(昭和2年)。小田急小田原線の開業と同時にオープンした。他の私鉄系遊園地と同じく、鉄道の利用者を増やすための手段として整備された。駅は「稲田登戸」という名前だった。駅が現在の名前になったのは1955年(昭和30年)のことだ。
閉園前の向ケ丘遊園(2001年12月撮影)
遊園地とはいっても当初は無料で、自然公園的な位置づけだった。小田急の社史「小田急五十年史」によると、「都会人の憩いの場」というコンセプトでスタートし、娯楽施設としては「土器(かわらけ)投げ」があったくらいだという。
その後1928年(昭和3年)から29年にかけて、テニスコートやローラースケート場、アイススケート場などを整備した。「日本映画俳優学校」も開校した。社史によれば、戦前に三大スターといわれた俳優、佐分利信らを輩出したという。
本格的な遊園地への道を歩み始めたのは戦後になってから。1952年(昭和27年)に有料化し、6年後には園内にあった野球場跡地にバラ園を造る。これが評判となった。このバラ園は今も健在で、「生田緑地ばら苑」となっている。
遊具も次々と新設していき、高度成長期には首都圏屈指の人気遊園地となる。「僕たちの大好きな遊園地」(洋泉社)によると、20人乗りのボートで斜面を滑り落ちていく「ウォーターシュート」などが人気を集めたという。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK15038_W3A510C1000000/
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生田緑地ばら苑は何度も訪れていますが、神奈川県内一の見事なバラ園になっています。しかも無料で利用できるところが驚きです。
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